まるで春のように暖かな日だった。
空は澄み渡り、まるい雲が空を歩み、その雲を壊さない穏やかさで風が後ろから吹き抜ける。
私は、異様なほどにのどかな草原にいた。
今が本当に春だったかどうか、思い出すことはできない。
彼は、のどかさの膜を破るようにして現れた。
原っぱの向こうから一直線に私に向けて駆けてきたのは、せわしない彩りの服を着た男だった。
「あのね! こんにちは! あのね! はじめまして!」
男は目の前に止まるなり、跳ねるような足取りで私の周りをぐるりと回った。
それから一歩たりともじっとせず、彼が動くたびにその頭に生えたウサギの耳が揺れる。
私は驚きのあまり硬直して、遅れを取る。
男は十六から十八歳程度に見えたが、その年頃の男性にはウサギの耳が生えているものだったかどうか、私は知らない。
きっと、おかしいことだ。
おかしいことをおかしいと指摘するのには、勇気が要る。
「……はじめまして」
「俺様ちゃんねえ、ここに落ちてから初めて人と会ったんだよ! ウシとねえ、ウマとヒツジとワンワンは見たけどね!」
挨拶ひとつ返すと、彼は跳ねるように次々と言葉を向けてくる。
感情の濃淡が感じられない、常に100%出力の元気さ、やたらに明るい雰囲気。閉じない口と、立ち止まることができないような落ち着きのなさ。
私は彼を異常者と思った。
「そうだそうそう、お姉さんの名前はなんていうの?」
私は名乗った。異常者に名前を教えるのは抵抗があったが、私はノーということをためらう国で生まれ育ったものだから。
「そっかあ俺様ちゃんはねえ、ようきなうさぎ!」
よろしくね、と『ようきなうさぎ』は私の手を取り上下に振り回して、一方的な握手を交わす。
もちろん、その名前を聞き返しはしたが、彼は『ようきなうさぎ』と繰り返すものだから、そういう名前なのだろうと納得する他なかった。
ついでに彼の頭にあるウサギ耳を触ってみたが、やはり根本から生えているようだったので、そういう生き物なのだと納得する他なかった。
無理矢理にでも。
彼が一体どういうわけでこの草原にいるのか聞いてみようとしたところで、男が素っ頓狂な声をあげた。
「あー! いたあ! うさちゃんおいでー!」
ようきなうさぎは、ぐりん、と草原の一点を体ごと傾けて覗き込むと、両腕を広げる。
その声に圧倒されたように、緑の一面を跳ねて茶色のウサギが駆け出した。
ウサギ耳が生えた人間ではなく、馴染みのあるウサギの方だ。
男は捕まえようと飛びかかるが、ウサギは野生らしい健脚でジグザグに跳ねて男を撹乱、見事に逃げ出した。
「うさちゃん行っちゃったあ、ざーんねーん!」
「どうしてウサギを?」
「俺様ちゃんのお嫁さんになってもらうの!」「それでね、赤ちゃんウサギいっぱい育てる!」
彼はウサギのつもりなのだろう。自分と他のウサギの姿が大きく違うことなど、わかっていないのかもしれない。
だからウサギと結婚(?)して子供を作れると思っているのか……。
そのことを理解するのに多少の時間を消費して尚、私は絶句を続けた。
顔が自然と渋くなる。
彼と会話していると、常識のズレがひどく疲れを生む。
この世界に突然来てから困惑することは多々あれど、今までの自分の常識を捨てて、ようやく慣れてきたと思ったのに。
慣れきることなどできないのだ。
今はただ、童話のように明るい色の空ばかりが私を癒やす。
「だからお姉さんも、うさちゃん探して! いいよね! いいかな? いいんだよねっ!」
空を見上げて現実逃避していると、男が私を覗き込んで爛々とした目つきを向けてくる。
その目は何となく熱っぽく、発情期という言葉を私に思い起こさせた。
ウサギは万年発情期だと聞いたことがあるが、それは本当だっただろうか?
これ以上ここにいて、いいことなんてあるはずもないのに。
しかし、ノーと言えない国出身の私は、あまりにも断るのが下手だ。
「私、用事が……」
「じゃ、その前に探して、見つけて、捕まえて! 」
男に両手をがっしりと掴まれた。絶対に離さないという意気込みと、ネジが外れたような笑顔。
本当に、本当に……困った。
美しい空も草原も風も、じろじろ見るばかりで助けてくれやしない。
探索者たちはデイドリームの片隅、のどかな草原を訪れる。
それを見つけて駆け寄ってきたのは、頭からウサギの耳が生えたおかしな男「ようきなうさぎ」だった。
探索者たちは彼から、嫁になる野ウサギを捕まえるよう頼まれる。
彼は「異世界から飛ばされてきた」という風なことを話し、異世界から持ち込んだ「たまご」を見せてくれるかもしれない。探索者が土まみれになることに抵抗を示すタイプなら、KPから面白いクスリが手に入るとチラつかせてもいいだろう。
野ウサギを嫁として「ようきなうさぎ」に引き渡すと、彼は喜んで受け取り、代わりに以下のアイテムを人数分渡す。
また探索者が望むのであれば、春風のように気まぐれに同行するかもしれない。イカれたうさぎ耳の男が何の役に立つかって?……それはPLの柔軟な発想に任せることにしよう。
報酬:ドラッグ「イースターエッグ」価値D×人数分
人間が誰しも持っている「常識」を一時的に失わせる薬物。
形状は鶏卵に似ており、それぞれにカラフルな模様がつけられている。
用法は針で小さな穴を開け、中の黄身(のような何か)を飲み干すこと。
みんなでキメて愉快なRPがしたいときや、敵対的なNPCに周りからの信頼を失わせたいときに活用できるかもしれない。
身体的・精神的効果(使用中)
1d10で下記の「常識の喪失表」の効果を受ける。周りからは異常な状態だとわかるが、本人にとってはそれが当たり前という感覚に陥る。
また、副次的な効果で多幸感、万能感、気分の高揚がある。
常識の喪失表
1.着衣という常識を失う。裸になろうとする。
2.会話は二人でするものという常識を失う。一人で会話を始める。
3.手でものを掴むという常識を失う。なんでも口で咥える。
4.二足歩行という常識を失う。四つん這いで歩く。
5.共通の言葉という常識を失う。擬音語だけで喋る。
6.手足が二本ずつという常識を失う。1d4で決めた手足のどれかを動かさなくなる。
7.生物と無生物の区別という常識を失う。家具や植物なども人間のように扱う。
8.自分を傷つけないという常識を失う。自分の体を叩いて遊ぶ。
9.目視だけで済ませるという常識を失う。人でもモノでも、何でも手で触って確かめる。
10.止まるという常識を失う。常に走るかジャンプし続ける。
ステータスの変化(使用中)
喪失した常識に応じたプラス/マイナス補正をKPの指示で受ける
効果時間
1日(約6~14時間)
身体的・精神的反動(使用後)
自分が常識を失っていたことを自覚し1d4の正気度喪失、常識を取り戻したことによる退屈さと虚脱感
デトックス
3時間ごとにPOW×5に成功することで効果(使用中)の消失
オーバードーズ
なし
「はじめまして、うさちゃん!」
男は真っ白なウサギを抱いて、心底嬉しそうにげらげら笑っている。
私はボロボロになっている。
夕日が草原にオレンジの磨りガラスを運んできて、もうそんなに時間が経ったのか、と思う。
どうにかメスのウサギを捕まえ、男に引き渡したところだ。
しかし、ウサギがオスだったところで、この男にはわからなかったのではないか?
ウサギは男の腕の中で、観念したようにぐったりとしている。
もしくは、ウサギの方もこの男がタイプで、満更でもないのかもしれない。
そうして万事丸く収まるといいのだが。
「ありがとうねえ、お姉さん」
「どういたしまして……仲良くしてね」
「うん! 俺様ちゃんと赤ちゃん作ろうねえ」
常識的なことを言うべきと思いながらためらい、私はなんとなく気まずい気持ちになる。
彼らがうまくやっていけるといいのだが。
「あっそうだ! うつうさちゃんも探さなきゃなんだ!」
男が思い出したように顔と一緒に声を上げる。彼のウサギ耳がぴこんと跳ねて、抱いていたウサギもビクッと跳ねる。
「うつうさちゃん?」
「お友達! ここに飛ばされてくる途中でねえ、ばびゅーんってどっか行っちゃったんだよ!」
男は、ばびゅーんという声に合わせて指先を大きく左右に動かし、流星が空の向こうへ飛んでいくような仕草をする。
釣られて見上げた先に、一番星の点描が打たれていた。たった今、彼の指で空に描かれたように。
夜が間近だ。
その夜もまた、春の空気を漂わせている。
「探すものがたくさんあるんだね」
「でもねえ、きっと大丈夫!」
「どうして?」
「かみさまが教えてくれるから!」
かみさま?私は思わず聞き返す。
脳内に一瞬、哄笑する無貌の黒い影が飛来したが、それが何なのか私にはわからないし、きっと関係のない話なのだろう。
「お姉さんにも、俺様ちゃんにもいないけど。いる人にはついてる、かみさま!」
「どんな人に神様がついてるの?」
「かみさまが産んだ子には、かみさまがついてる!」「かみさまはねえ、自分の子を導くんだって!」
抽象的な言葉だった。
ただ、「私には神様がいない」そのことだけは直感的にわかった。
神に導かれていない、操られていないというのは、限りなく自由であるということだ。
気付けば、男はウサギごと草原の上に転がっている。ごろごろと草を踏み潰して顔の前に掲げたウサギの腹を吸い、戯れている。
夜が来ることなど気にも止めず。
春が終わるところなど、見たことがないとばかりに。
私は仕方なく、ご都合主義的な第六感を発揮して、草原の向こうを指さした。
「今、もうじき来るよ。神様のいる人」
ほんとう? と弾みをつけて起き上がったウサギ耳の男。
彼の言葉で、私にはわかってしまったのだ。
私たちと彼らの見分け方が。
草原の向こうから一人の人物がやって来た。
その人物の頭のてっぺんから、銀の糸が空に向けて伸びていた。吊り下げられているかのように。
今や、私にはそれがはっきりと見えるようになっていた。
「はじめまして! 俺様ちゃんねえ、かみさまに質問!」
男が挙手をして、やって来た人物の上空を見上げた。
私に向けたように、躁病的な興奮に満ちた目をしているのだろう。
次元を超えて、彼と何者かの目が合った。
驚いた誰かが手にしていたダイスを転がすような音が、どこからともなく響いた。
Illustrated by 接続設定 あのね! こんにちは! あのね! はじめまして!
別次元にある、イースターな常春世界「たまごとうさぎ帝国」がナイアル・オブ・パラダイスのデイドリームと強制的に結合してしまい、その衝撃でこちらに飛ばされてしまった存在。
その正体はポップでキュートなウサギとも、粘土細工のごとく不定形の怪物をこねて造られた生命ともつかない。
落ち着くことと落ち込むことができず、頭のネジが緩んでいるのか会話が成り立たないことも。
一人称は「俺様ちゃん」。
元の場所に帰る方法と共に、もう一匹の「うつうつうさぎ」を探している。
万年発情期。