人は誰しも願いがある。
実際に叶える目標か、叶えられない幻か、とても大きなものか、それとも日常のささいなものなのか。
欲望渦巻く混沌都市には、そんな人々の気をひく、とある噂が広まっていた。
いわく、自然広がる地域『新界(ニュー・テリトリー)』に、『林村許願樹(ラムチュン・ウィッチングツリー)』という、『本当の自分の願い』を叶える樹が存在するらしい。
その噂は人づてに、あるいはネットを介して、あるいはふらりと足の向いた場所で偶然 探索者の耳に入るかもしれない。
探索者は噂を信じるだろうか?それとも一笑に付すだろうか?それとも恐れるだろうか?
だが探索者がどう思おうと、どう感じようと、意志を持つ者は自ずと願いを生み、その願いは言葉となり、言葉は行動となり、行動は『本当の自分の願い』を叶える樹と惹き合うことになるだろう。それがたとえ本人が意図しなかったとしても。
『新界(ニュー・テリトリー)』は、香港島や九龍と違い、雑居とした近代的な都市ではなく、どこか古めかしい中国の悠久な雰囲気が漂う地域だ。
三国志や西遊記の旅人達が歩くような、都市の煌びやかなネオン幻想とはまた違った、モノノケや妖術師が霧の中から出てきそうな幻想を漂わせている。
都市の喧騒にまかれた者にとっては、そのゆるやかな雰囲気は心地よく、自然を感じながら歩みを進めると、いくつかの小さな村を見つけることもあるだろう。
昔ながらの農業を営む村、かつて部族の襲撃から守るために石壁に囲まれた村、多くの工房を持つ職人達の村、世俗から離れた天才が住む隠れ里…。
そんな村々の中の一つに、『本当の自分の願い』を叶える樹がある広場を中心とした小さな村が存在する。
村はいたってのどかだ。周辺にも民家や住民がチラホラ目につく程度。
樹には、日本の七夕の笹や竹に飾る赤い短冊のようなものや、黄色やオレンジの果実がぶら下がり、とても華やかに彩られている。
住民に話を聞けば、年に数回、樹を中心とした催しが開かれたり、時折 旅人や旅行客が訪れて祈ったり、時には妖怪や仙人が現れたなどの不思議なこともあるそうだ。
ちょっと変わったこともある村だが、人語を介する狸が現れたり、人を騙す美しい狐が現れたり、雲に乗る猿が現れたり、街の人間が驚くようなことも、ここでは天気や四季が移り変わるのと、さして変わらないようだ。そのようなものが、自然の営みの一部として、村人に浸透していることを、都市から来た者は驚くかもしれないだろう。
さて、樹の傍まで来た探索者は、余程特異な理由がなければ、その樹に試しに願ってみるだろう。
手を叩いたり、擦り合わせたり、握ったり、その願いの方法も、きっと願う人の文化や価値観により、様々であるに違いない。
多くの人は目をつぶって願いを祈るかもしれないし、そうでないかもしれない。
だが、探索者がふと気づくと、樹のすぐ傍にいつの間にか一人の老人が居ることに気づくだろう。つい先ほどまでは、そのような人物など居なかったことにも気づくだろう。
そして、先ほどまでのゆるやかでのどかな村の雰囲気が変化し、辺りにうっすらと霧のようなものが漂い始め、村人の姿がどこにも見えず、どこか不思議で静寂な感覚を探索者は感じる。
「初めまして、貴方もこの樹の噂を聞いて願いを叶えに来たのですか?」
そう、老人は問う。
「私は『ドクター・ドクトル』。私は人々の願いを叶える力を持った… そうですね、『魔法使い』のようなものです。」
「願いを叶える樹の噂とは、つまり私のことなのですよ。」
「貴方の願いも叶えてあげましょう。もう一度教えてください。貴方の『本当の自分の願い』とはなんですか?」
突然現れた魔法使いと名乗る老人。探索者は驚くかもしれないが、不思議とミステリアスな雰囲気を漂わせつつも、老人の口調はいたって温厚であり、その物腰は柔和だ。まるで自然のようにゆるやかで紳士な態度には、敵意や危険性などは微塵も感じられない。
探索者が訝しみながら、あるいは嬉々として願いを伝えれば、『ドクター・ドクトル』は深く頷いて聞き入れてくれるだろう。
「なるほど… 貴方の願い、確かに聞き入れました。それでは叶えてしんぜましょう。」
すると、片手で虚空にススッと印を切るような、サラサラっとスペルを描くような動きを見せ、目を閉じて呪文のようなものを唱え始める…。
「イア・インガ・グンガ…。インフィニティッド…ヴォイド!。フィーー…ル、ゲイブ!フェィアーーースルゥォォォォ…」
ヒュンッ
ザクッ!!ザクッ!!
「ぐぁぁッ!」
刹那。
『ドクトル』が呪文に集中し、探索者がそれに意識を向けていると、探索者の後方から、鋭く鋭利な物体が、複数飛んで突き刺さる。
ひとつは『ドクトル』の心臓近くに突き刺さり、もうひとつは探索者の脇腹、あるいは肩か、いずれにしろ浅くはない傷を負ってしまう。
「グッ…ゴホッ!!」
口から血を吐き出し、みるみる内に肌の色が青白くなっていく『ドクトル』。
そして探索者の背後からザッザと歩み寄る者…。
探索者が振り返ると… そこに居たのは、よく知る人物。有り得ないことに、自分そっくりのもう一人の自分がそこに存在していた。
「俺の名は(探索者名)!俺の願いは『自分こそが本物の(探索者名)』になることだ。命が惜しくば、その願いを叶えてもらおう。」
もう一人の自分は、明らかな敵意を持って。そして探索者を鋭く睨みつけて歩み寄ってくる。
狙われた願いを叶える魔法使い。狙われた自分。探索者は一体どうするのか…!?
探索者は『新界(ニュー・テリトリー)』にあるという『本当の自分の願い』を叶える樹の噂を聞いて、『林村許願樹(ラムチュン・ウィッチングツリー)』にやってくる。そこで『ドクター・ドクトル』と出会い、願いを叶えて貰おうとするが、その最中背後から攻撃を受ける。『ドクター・ドクトル』は致命傷、探索者も1D6のダメージを負い、振り返るとそこにはもう一人の自分が存在し、有り得ない状況に1/1D6の正気度喪失を行う。
もう一人の自分は「自分こそが本物の自分になることが願いだ」と宣言し、探索者に敵意を向けて、歩み寄ってくる。
新しく得た能力が報酬となる。
探索者は『ドクトル』から与えられた能力を用いて、無事に危機から脱した。
「ありがとう、貴方のお陰で、無事助かりましたよ。」
『ドクトル』は、そう探索者にお礼を言うが、ふとを彼を見ると、負っていた筈の傷は、なぜか綺麗さっぱり消えている。
探索者が、その事について指摘するか、訝しく感じると、『ドクトル』は謝罪をしつつ、教えてくれるだろう。
「申し訳ない。先ほどのもう一人の貴方は、実は私が作り出した幻なのです。」
その言葉に、探索者はどう思うだろうか?
何故こんなことを?危うく死ぬところだったんだぞ!俺を騙したのか?
実際に言葉に出し、彼を責めたり問い詰めたりするかどうかは定かではないが、彼の言葉を聞いた探索者の心の中には、そういったモヤっとした感情や、意味や真実を知りたいという思いが生まれるかもしれない。
「私のことを良く思わない感情を抱いたとしても、それは当然です。貴方は全く間違っていない。」
「しかし私の役目は、私の元に来た者たちに対し『本当の自分の願い』を与えることなのです。私は、その役目のために、このようなことを致しました。」
察しが良い探索者であれば、その言葉で『本当の自分の願い』の意味を理解できるかもしれない。
そうでなければ、探索者の頭にはクエスチョンマークが大量に浮かんでいることだろう。
「私の元に来た者の願いで多いのは、お金が欲しい、人気者になりたい、誰かをモノにしたい、この世界から出たい、といったたぐいのものです。」
「しかしそれは、何か他のものとの比較や依存であって、『本当の自分の願い』ではありません。」
「私は、そういった者達に混沌(カオス)… 危機的状況を与えます。」
「人は、危機的状況に陥った時にこそ、『本当の自分』をさらけ出します。」
「その状況で現れる行動こそ、強い思いと意志であり、その人が真に願う『本当の自分の願い』なのです。」
と、『ドクトル』は自身の行ったことと、その意味について探索者に伝えてくれる。
それを語る様子も、出会ったときと同じ柔和で温厚な紳士的雰囲気であり、真に探索者のことを思っての態度であることを感じ取れることが出来るだろう。
探索者が『本当の自分の願い』について、もう少し踏み込んで聞けば、『ドクトル』は、自身の能力について教えてくれる。
それは、何でも願いを叶えられる能力があるわけではなく、願う人が『本当の自分』をさらけ出した時にのみ、その人が本来持っているであろう、潜在能力や知識の『フタ』をちょっとだけズラして、部分的に覚醒させたり、本人が知らない『本当の自分』を気づかせることができるというものだ。『ドクトル』は、そのことを『本当の自分の願い』と言っているというわけだ。
以上を伝えると、『ドクトル』は、探索者達に、次のようなことを言う。
「彼を知り、己を知れば、百戦危うからず」
「この世界は、そういう所です。ゆめゆめ忘れないでください。」
「では、縁があれば、またどこかで。」
そのような、意味ありげな言葉を残し、『ドクトル』は蜃気楼のように、探索者の前からその姿を消す。
探索者がふと気づけば、周囲にはのどかな村の雰囲気が戻ってきていた。
彼を知り、己を知れば、百戦危うからず
<歴史>あるいは<知識>に成功すれば、この言葉が、中国で有名な武将『孫子』の兵法書の引用であり、戦において敵と味方のことを熟知していれば負ける心配はない、ということを説いているということが理解できるだろう。
また、この言葉は『孫子』以外の、以下のような言葉に置き換えて問題は無い。
・『汝自身を知れ -ソクラテス』
・『世界中のことを知るよりも、自分自身を知ることのほうがはるかに難しい。 -ゲーテ』
・『最も困難なことは自分自身を知ることであり、最も容易なことは他人に忠告することである。 -タレス』
これらは、人や人の心や感情から生み出された「ナイアル・ネオ・ファンタズマ」という世界を攻略するには、自分自身(あるいは人間の内面)を知ることも大事だよ、という教訓やメッセージとなっている。それぞれのセッションやキャラクターの状況に応じて、都合の良いように変更、解釈をするといいだろう。
Illustrated by 接続設定 私の役目は『本当の自分の願い』を与えることなのです。
クトゥルフ神話TRPG動画「初めてのクトゥルフ」「CTHULHU DREAM LANDS Arzt Traumerei」「アウトサイダーズ#4」などに登場するクトゥルフ神話の探索者。本書の世界では、林村許願樹(ラムチュン・ウィッチングツリー)を拠点にしている、老いた魔法使いあるいは仙人のような存在で、人々の『本当の自分の願い』への気づき、覚醒などを手助けすることを使命としている。